この前現代文の授業で日本において常識といわれるものは単なる強者の実感であって、いまやcommon senseとしての意味はないという話があった訳です。そこで先生は、「ヨーロッパは戦乱の社会や歴史の中で自分の周りにいる奴がどんな奴なのかが判断できないという理由から来ているので、ヨーロッパと言うのは本当に個人主義なんだけど、それはいざとなったら組織的に働くという中での個人主義であって、それはcommon senseとしての働きによるものがある。つまり、全員の中に共通の土台をもつ正しいことの認識がある」というようなことを言ったのです。そして日本と比べて、「日本はcommon senseがないので社会が幼稚な感がある」というようなことを言いはなちました。
そこで俺が思ったことは、この場合、日本にcommon senseという概念が普及しなかった原因は単に日本人が劣っていたとか、日本がその概念を普及させるのを長い間怠っていたということではなくて、ヨーロッパとは違う共有できる実感というものがあるからではないかなと思ったわけです。つまり、もともとの実感の共有レベルがヨーロッパに比べて格段に高かったために、common senseが既にあるものの中には溶け込めないというような状況が生じたのでないかと思います。
単に、どちらに優劣があるという話のようにシンプリファイにはうまくいかないことなんでは、ということです。
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