「真面目に生きてきた女性の一人としてセクハラ問題に思うこと」を読んで連想したドーピング問題のこと

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「真面目に生きてきた女性の一人としてセクハラ問題に思うこと」という記事を読んで、自転車のドーピング問題を連想したのでそれについて書く。この記事そのものに対してもいろいろ思うことがあるけれど、それは時間があったら一番下にでも書こうと思う。

私は「権力を持っている男性に便宜を図ってもらおうと近づいたらセクハラ・パワハラを受けた、私は被害者だ」と主張する女性全般にとても納得のいかない気持ちを抱いている。「セクハラ・パワハラ」部分をレイプに置き換えても同じだ。彼女らは女性性を利用し便宜を図ってもらうことで、正当な手段でガチで戦うつもりで勝負の土俵に上がった他の女性(および男性)から不当に権利を奪おうとした人間だからだ。不正なチートプレイヤーということだ。

この記事の言いたいことはこれだと思う。すこし文脈は違うけれど、自転車のプロのロードレース界に蔓延していたドーピングが、自転車レースそのものを変えてしまったことは若干この話に通ずるものがある。その話が詳しく書かれている自叙伝がタイラー・ハミルトンの「シークレット・レース」である。

この本にかかれていることは衝撃的である。「誰がもっとも速いか」を決めるはずだった自転車レースは、「誰がもっともドーピングによって利益を得られる遺伝子を持っているか」に変わったのである。

自転車レースは過酷なスポーツであり、200kmを超える距離を4,5時間以上かけて走り、それを何日も連続して行う。もちろん技術やチームプレイが重要な要素ではあるのだが、もっとも重要なのはよい筋肉と強い心肺能力である。ドーピングは筋肉および心肺能力を異次元のレベルで増強することができる。

一方で、そのドーピングの”効き”は人によって異なる。自転車レース主催者側もドーピングに対しては様々な対策を取っており、たとえば血液の酸素運搬能力の指標であるヘマトクリット値に対しては上限がかけられている。その上限を超えていることがわかるとドーピングを疑われるという仕組みである。人はそれぞれ違う遺伝子を持っているため、ドーピングしない状態においてのヘマトクリット値から、上限であるヘマトクリット値までの差は人によって違う。それぞれの人で”どれだけドーピングできるか”が異なるというわけだ。

ドーピングが蔓延、つまりみんなが使うようになるとどうなるか。自転車レースは本来の心肺能力の闘いではなくなり、通常状態のヘマトクリット値が低い、つまりドーピングをたくさんできる遺伝子を持つ選手の闘いとなる。もちろんもともとの心肺能力の時点で差があるため必ずしもドーピングによって得られた能力だけの闘いではないのだが、ドーピングはかなりの割合で身体能力に影響を与えるため、かなり支配的となるわけだ。

これはフェアではないし、もしこれがこのスポーツの視聴者にわかると面白くなくなってしまう。もちろん、もともと持って生まれた遺伝子が体そのものを作っているが、視聴者がみたいのは”ドーピング耐性”ではないのである。ドーピングが蔓延している時期には、ある選手がいきなり集団を抜けてずば抜けたパフォーマンスを見せたりすると、見ている側は”これはドーピングだろうか、それとも本来の持っていた力だろうか”と疑心暗鬼になりながら見て、ゴールしたあと次の日あたりにドーピングで逮捕されていたりする。そうするとレースから去っていくので、だんだん選手が減ってきてしまい、全然つまらないレースとなってしまう。

元の記事の著者がいう「チート行為」はこのドーピングにすこし似ている。本来の能力以外のところで評価されることが通常状態になってしまうと、必ず被害者が出て来る。自転車レースにおける被害者は、潔白であった選手、自転車レース界の評判そのもの、ファン、スポンサーなど。潔白であった選手は潔白を叫ぶが、みんながやっている雰囲気になると信用されなくなり、自転車レース界そのものはスポンサーもファンもいなくなり次世代は途絶えてしまう。ドーピングそのものに危険性のある薬物の場合、選手の健康は奪われる。一方でこのドーピングによって利益を得たものは誰か?ドーピングは個人でやる場合もあるが、基本的にはドーピング医師がおり、その処方にしたがって薬を飲んだり、注射を売ったり血液を入れたりする。この医師は利益が得られる。また、ドーピングした選手に関しても、もしばれなければ、多額の賞金と名誉が得られることとなる。

元の記事の場合の被害者は、この著者が指摘しているように本来能力があるのにその能力を使えなかった人、またその能力を使って利益を得られるはずだった組織(たとえば会社)である。もしこの行為が蔓延した会社があり、上司への媚のみで給与や権限が決まる場合、その会社はそのうちつぶれるであろう。本来必要な能力が評価指標になっていないからだ。その点で被害者(組織)はこの問題を解決する動機があるはずだ。もし経営者がこの考えを持っていれば、男女問わずチート行為によってその権力を得たものに対して罰則を与えるような就業規則を作っておくことはできるかもしれない。見破るのは難しそうだけど。

この記事そのものに関して、思うことを下記に箇条書きでメモしておく。

  • 越後屋と悪代官のどちらも悪いと言ってはいるものの、越後屋がいなくなれば悪代官は生まれないと書いている。これはたぶんそうはならないと思う。悪代官によっても、もともと無実だった人が越後屋となってしまう場合はいくらでもありそうだ。
  • 越後屋行為とコミュニケーションスキルをわけるのはなかなかに難しい。大学生のとき、試験の過去問を集めるのが得意なのは女子であった。その当時はチート行為に思えたが、あとで「ルール内で自分の能力を最大限に発揮する」というのが世の中であると何回も思い知らされた。ナルトの中忍試験の筆記試験とかもその行為に似ている。
  • 真面目に生きることが必ずしも報われるわけではない。真面目さはその人の魅力のひとつであるが、ルールのないところでの振る舞いを誰かがさばいてくれるわけでは必ずしもない。時として方法は問われないこともある。悔しいけれど真面目さや能力、成果だけが必ずしも評価されるわけではない。
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