タイトルにはSeattleに来て感じた、と書いたが必ずしもそうではない。けれど、思ったことを書こうと思う。一緒に仕事をしている人たちは、アメリカ人・イギリス人・カナダ人・フランス人・日本人が主にいる。そのような環境でたとえば会議などで喋ると、圧倒的に日本人以外の人が多く喋るなあと思っていた。
最初に思っていたのは、日本人は人にもよるが英語はだいたいのケースで第2外国語や第3外国語であり、そもそもオフィシャルに英語が話される場面で、英語が相対的に苦手なので英語についていけないから喋りが少ないということ。俺もそういう面があるし、他にも英語が必ずしも得意じゃない日本人にとっては当てはまるとは思う。一方、英語が得意であったとしても、やっぱり日本人以外の人がよく喋るような気がしていた。
そこで日本人以外が何を話しているのかと考えてみると、結構当たり前のことを喋っていることが多い気がする。一方日本人だけの会議だと、当たり前のことはどちらかというと暗黙の了解として認識されていてそこまで喋らないように思う。当たり前のことをひたすら確認する人がいると、ちょっとまどろっこしく感じてしまう面があるんじゃないだろうか?実際には当たり前かどうか、同じ前提が共有できているかどうかは怪しい場合も多い(と思う。これは俺が空気を読むのがとても苦手なのでそう思うからかもしれない)
日本では、日本人はどう、アメリカ人はどう、とかいう特徴付けをすることがある。けれどもSeattleに来てみたらそもそも標準的なものというのがかなり場合場合によるので、そういう日本的な特徴付けが難しいんじゃないかと感じる。アメリカ人と言っても外見とか言動からアメリカ人かどうか全然わからない。あらゆる人種の人がいる。人と人との間で共有されている常識が結構日本に比べて限られている気がする。
調べてみると、こういうのはハイコンテクスト/ローコンテクストな文化という捉え方があるようで、この考え方はとても共感できた。日本は極端にハイコンテクストな文化らしい。あうんの呼吸みたいなやつだ。一方アメリカはかなりローコンテクストな気がする。日本からSeattleに来てたまに助かることは、ハイコンテクストなところからローコンテクストなところにきたこと。
ハイコンテクストな社会ではあまり細かく説明してくれないことでも、ローコンテクストな文化では結構いちいち説明してくれたりするので、英語が苦手でかつ空気が読めない人にとっては非常に助かる。つまり俺だ。逆に、助からないこともあって、ちゃんと理由を説明したり前提を説明したりしないと伝わらない感じがとてもある。ぶっきらぼうな感じになるというか。
あと、日本語から英語へ誰かが翻訳したものを見るときにも同じように思う。日本語の文章だと主語と述語がきっちり対応していなくても、常識がカバーしてくれて通じるケースが結構ある。一方、それをそのまま英語に訳した文書を見るとよくわからない感じになるときがある。いい例がいま思い浮かばないのが残念だけれど。
偉そうにいろいろ書いたけれど、まだSeattleきて3週間弱だし経験が浅いし、この考察はおかしいっていう意見がぜひ聞きたいので、もし何か思ったら書いてくれると嬉しいです。何か違う背景があるのかもしれないし、そもそも根底にあるものが違うのかもしれないし。
相変わらずアパートメントハンティングがまだ終わっていなかったり、SSNもまだ来てなかったり、英語が苦手だったり、免許もまだ持ってなかったり、お金が尽きそうだったりで苦労が絶えないけれど、新しいことに気づけるのは面白いなと思う。
夜のスペースニードル
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