昔から映画でも本でも、恋とかの話では泣かないし、怖くて泣くこともない。現実世界のことでも、もの心ついてからはどんなに暗い夜の道でも、お化け屋敷でも、失恋しても、自分が乗った人力飛行機がその役目を終えられず堕ちても(これはあとでは泣いた気がするけど)、体力的に辛すぎることでも、そういうことであまりすぐには感情が動かなくなっていた。
もちろん悲しいとか寂しいとかすごく思うけれど、それ自体ではすぐに実感ができないんだろうなと自分で思う。それがどういうことかを頭で考えて、たしかにそれは怖かったり、失ったものの大きさに気づいたりして悲しくなったりするのだけれど、それはややありのままの感情からは離れている気がする。
そんな中で、弱点なのが人が死ぬということ。映画だったら一番弱いのは自己犠牲の話だと思う。誰だって自分が死ぬことは一番厭なのに、陽気に自分の身を呈して死んでいってしまう話とか。インデペンデンス・デイなんて勢いでもっていってるアメリカ映画だけど、あのアル中のオヤジが宇宙人の要塞みたいなのに突っ込むのはかっこよすぎて泣いてしまう。遊就館に行って、特攻隊の人の遺書を読むのにも弱い。この人たちがいたから今の自分がいるんだなと感謝する。
それから人が死ぬのがわかりながら逝ってしまう話。この前読んだリリー・フランキーの「オカンとボクと、時々、オトン」。ティピカルなもので泣く奴だなって思うかもしれないけれどびっくりするくらい泣いてしまった。何か脳からの涙じゃなくてまるで脊髄反射のように。身近な人は永遠にそこにいるわけではないという普段忘れている現実。もっとこうすればよかった、ああすればよかった、と後悔する。
昨日、映画監督の今敏さんが亡くなった。その遺書が公開されていた(つながりにくいかもしれないから、転載してあるところで見るか後で見るかしたほうがいいかもしれない)。
全く知り合いでも友達でもないし、境遇も全然違うのだけれど、これを読んでいて研究室なのに泣いてしまった。まわりは学会の予稿の締切り近くでパソコンに向かって書いている人たちで、かっこ悪くてしょうがないので頑張って隠した。涙を拭いて飛行機について書いた。
好きな漫画に「火の鳥」がある。小学生、中学生くらいのときによく読んだ。このほとんどの物語の中の裏に横たわっているテーマは死生観。あるものは自分の墓を建てるためだけに生きて死に、あるものは一族の歴史を書くために生きて死ぬ。あるものは永遠の命を得て、ただ生きる。
やっぱり、人は何かを成すために生きるのだと思う。ただ寿命を伸ばすそれだけが重要じゃないはずだ。与えられた命は手段で、それをどう使うかということ。そんなことを改めて思った。今敏さんの遺書が心を揺さぶるのは、現実世界に残っているつながりが大きすぎるからだろう。
自分が死ぬときには、「ドキドキしてなんて楽しい一生だったんだろう、俺と関わったすべての人にありがとう」って言って死にたい。なんて思った。やばい早く原稿書かなくちゃ、卒業できなくなるー
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